昭和46年06月29日 朝の御理解
御神訓 一、「神は声もなし形も見えず疑わば限りなし恐るべし疑いを去れよ。」
恐るべし疑いを去れよとこれはその反対の事を言うたら、それこそ恐るべきそれこそ凄まじいまでのおかげを受けられると言う事なんです。本当にこれはどう言う事を表現しとるか分らんですけど、やはり凄まじいというより他はないですね。神様のおかげと云うものは凄まじいまでの働き。それを疑いが段々なくなって、神様を信じての生活、そこから生まれてくる神様のお働きというものは、それこそ恐るべしである。それこそ恐ろしいまでの神様のお働きがそこに見せて頂き見せて貰うことが出来る。
それが信心なんです。所謂生きた神様の信心と言うわけです。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだ事なしと仰せられる。天地の働きが凄まじいまでの働き、その働きがその氏子一人一人のために働かれるのですからそれは凄まじい事になってくるのです。例えば二十年前の私を知っておる人が今日私がkのようなおかげを頂いておることを見たり聞いたりしたら。そこに神様の凄まじい働きを見ることが出来るだろうと思います。二十年前に着ろうと思うても着る着物がない。
食べようと思うても食べる物がないといったような生活をしていた私を知っていた人がです。私が神様のおかげを頂き、神様のおかげを表わしていんことになって参りました。所謂二十年前、その境というものはもうないと言って良い位でしたよね、一生かかっても私はこの借金のために、その時分の私の働きからすると一生かかってもこれは利払いも、これは出来んと思うておった、借金が一年後には片付いてしもうたんですからね。もう嘘みたいでしたよ。
それだけではありません。椛目のお広前ではどんどん人が助かる。それこそ門前市をなすと云う様な繁盛ですね。それこそ目を見張る様なそれこそ恐るべしと言う様なおかげが、どんなに考えても凄まじいそれから二十年間、合楽におかげを頂いて参りまして成程神様じゃなぁと皆がいわれる信心の内容が目を見張られるだけのおかげをねそれこそこの合楽の此処は水田圃でしたよね。水田圃というのか深田でした。稲を作っても麦を作っても出来ないと言う様なところでした。
そこに忽然としてこういう様な、人は御殿のようなといわれるが御殿のようなお広前が出来たんですからね。しかもお金もなかった。その時分にありましたお金と言えば兎に角この土地を買うのと地上げをするだけの金しかなかった。あそれかと言って頑張んなさいと言うて私がどんどんお供えして下さいと言うた事は一ぺんもありませんでした。御造営がはじまってお供えのことに私は口を出したことは一ぺんもありませんでした。それはお供えをすることに依って、おかげを頂く事実はあります。
だからあんたはそげな事じゃいかんよと、おかげ頂いたらじゃんじゃんお供えせにゃ。後がおかげ頂かんよとまあお話しも随分させて頂きましたけど、御造営が始まってこの方は決してその事を私は申しませんでしたけれども、今言う様なおかげを受けた。いろいろ計算すると一億近くはかかっておるだろうと言われるようなお広前が建立された。しかもまだようやく来年五年祭というのに、若先生の部屋からこんどの西脇殿の建設の事と、からいうとこれが三千五百万円くらいと。
若先生の部屋が四百万円くらいと約四千万円くらいかかるでしょう。いうならば一銭もないと云うことはないですけれども、ありませんよお金は。何百万かこの家の支払いにも足らないくらいでしょう。それでそう言う事が思い立たれておると言う事。凄まじい働きを頂かなければ出来ることじゃないでしょう。神様をね信じて疑わないと言う事になったらそういう凄まじい事になって来るのですよ。これは病気の上にだって同じ事です。盲人が目が開いたり、ちんばが立つくらいは問題じゃない。
絶対九十九%はもう駄目だといわれた肉腫でも治って、おかげ頂いとるじゃないか。これを凄まじい働きと云わずして、他に凄まじいと言う言葉は他に使うことはないと思うくらい、信心しておかげを頂くという事はその様な事。それにです、信心がぐずぐずしてからいつまで経ったちゃお金に不自由しとる。いつまで経っても人間関係がぐずぐすしとる。いつまで経ったちゃ本当の稽古が頂けてないならば、おかしい。それ程神様を信じとるようであって信じてないと言う事になるのです。
私自身がその様な凄まじいおかげを頂いて、凄まじいおかげを表わして行くことを今月の焦点であります、表わして行く楽しみ。育って行く喜びということになる訳です。昨日申しましたが、今度青年会の方達が金光教の宣伝PRに使いましたパンフレットに合楽独特のものを挟んで先日丸少の方達が久留米でこれを配布いたしました。私はこれを頂いて改めて、繰返しそのことを思わして頂くのです。兎に角助かりたい人へ、助かりたい人達が此処に集まって来る。
先ず第一にお金に不自由している人、人間関係で悩んでいる人、難儀は自分一人だけと思っている人、心の依りどころを求めている人。何でも何曜日でも何時でも金光教合楽教会においで下さい。金光教は生き乍ら極楽の道を教えます。とまあPRしてあります。まあこれは薬の能書きと同じ事でね、只もう何でん〈か〉んでん効くごと書いちゃる。けどいっちょん効かんというのが薬の宣伝ですが、ところがこれは合楽に限ってです、他所は知りません。合楽に限ってだけはこれは絶対頂かれると言う事です。
私が言う事さえ聞いていきゃ、何故なら私このおかげのすべてを頂いておるからなのです。ですから如何に私を手本にして信心しよらんか、私の言う事を聞きよらんか、私のすることを見よらんかという事になるのです、もし他に悩みがあるとするならば。勿論、私は皆さんが合楽に御縁を頂いておられる。しかも朝参りなさる方達まあ一年もここにお参りなさった方ならばです、そのいづれもがです、はぁこのまま行けばそういうおかげが頂けるな。そういう信心が育っていくな。
おかげは頂かれるなと見通しはついてる皆さんであると私は確信いたします。成程今億万の金を持っている訳ではありますまい。それは私だって同じこと。今申します様に、どう金にこだわったっちゃ実際はないのですから、けれども限りない神様の働きを信じているから、無尽蔵に限りなく頂けるもんだと信じて必要なものが必要に応じてて頂けれる。それを信じている。
ですからそれは例えてまあ申しますと百円なら百円の生活費がいる。その百円の生活費をまあ不思議なことに一日も欠かしもせずに、神様ようもおかげ下さると、それを体験してある方はありましょう。皆そういう方ばっかりと私は思う。何とはなしに立ち行くおかげが頂かれる。だから百円が千円になり千円が壱万円のおかげ頂けれるように、その信心が育ってさえ行けば、おかげが頂かれるという事が分る。とにかく助かりたい人というのは、はじめから億万長者になる。
百万円の宝くじに当たるというもんじゃないです。これは健康の上においても、人間関係の上においてもそうです。一変に人間関係が開通してしまうというのではありません。病気が一変に治ってしまうのじゃありませんが、病気を病気と思わんですむようになる。一切神様の御都合だと分からせて頂く様になる。人間関係が一変におかげを頂くことはありますまいけれども、その都度都度にお取り次を頂いて、こういう心の状態こういう心の在り方でおかげを頂いていけば。
人間関係が例えば難しいという人間関係がお互い拝み合えるところまで、おかげが頂いて行けれるというのが私の持論である。私の生き方、私の心掛け、私の心の状態という様な話を聞いて下さってそれを皆さんが見習ってさえいって下さるならば、絶対解決のおかげを頂く。ですからこれは矢張り合楽のもの、合楽でなからなければ言えない事だなぁと。普通PRと言えば、それこそ本なことと嘘とが半分づつのことなくて、それこそ薬の能書のごとあろうけれども。
ここ合楽の信心に関してだけはこれだけ人間の悩みというか難儀というものが解消する程しの内容を合楽は持っておるということ。皆さんだからここを信じて頂かにゃいかんのです。そのためには精進しなければいけません。昨日は竹葉会でした。若い嫁さん達ばっかりの集まりです。それも本当に嬉しいことを聞かしてもらいお届けさして頂いたんですけれども、その中に北野の秋山さん達母子の事をいつもの事ながら有難いと思うた。昨日秋山さんがこういうお届けをされるのですよ。
親先生、神様が信ぜられる様になりましたら、願わなければおれなくなりますねと云うこと。私はそれを聞いて何と素晴らしいことだろうかと思うたですね。もう本当に素晴らしい、合楽で本気で稽古しとる人と思いますね。大体の人は半信半疑、又は神様はござるやらござらんやらわからんね。神は声もなし形も見えんのですから、それも又当たり前。それを段々の信心をさせて頂き十年、二十年の合楽で信心の稽古をさせて頂きよって、神様の絶対というものがわかってきたそしてそう言う事が。
言葉にひょっと出てくる様なおかげになって来ておる。神様を信じたら祈らなければおられない、願わなければおられないというのです。もう信じて祈っとるのであり願うとるのである。素晴らしいでしょうが。おかげ頂くか頂かんかわからんばってん、神様がおんなさるかおんなさらんかわからんけど苦しい時の神頼み、溺れるものは藁をも掴むといったような事で拝んでおる人がどの位多いことか、信心しよってからもそうです。大抵神様をわかっとる様に言いよってもそうです。
私は本当に段々信心しておかげ頂いたらです、信じるということ。神様を信じられるということ。信じられれば信じられる程、修行させてもらわねばおられんのであり信心がいよいよ、有難いものになってくるのは勿論ですけれども、分かれば分かるほど願わねばおられんのです。信心が分かれば分かる程、いや神様が信じられるようになってくれば来る程、疑えば限りなし恐るべし疑いを去れよ。疑うてかかる。
それは本当に恐ろしいことなんだ。神様は、けれどもそれを今度は反対に信じる稽古をさして頂き信じるようになり、信じて願わなければおれないようになってきたら、それこそ恐るべしというようなおかげになってくるでしょう。そういう信心がね、どういう様な信心から段々育っていくであろうかと、まあこれはほん一例ですけど、娘さんの島野俤子さんがお参りをして来る。これもう必ず竹葉会の時には、二人の小さい子供を連れて来ますからね。若い夫婦二人の中に二人の子供が出来とります。
主人の本家のすぐ傍らに分かれ家を建てて貰うてそこで生活している訳です。ですから二人の子供を連れて来ぬ訳にはいけません。そうすると必ず秋山さんがその時間にここにやって来られるです。そしてあの人達がお話しを頂かせて頂く間、共励をさせて頂く間は、俤子さんゆっくりお話しを頂きなさい。私はこっちで守をしよるけんと云うような生き方です。本当に私はそのくらいなからにゃつまらんと思うですよ。婆さんが居ったっちゃ子供はわざわざ連れてやるごたるところもあるです。
今日もあんたどんが月に一回の会合日じゃから小さかとは家に置いていきなさいと言う様な、生き方にならなければ一家本当な勢を揃えた信心にはなりません。秋山さんの場合は、もう嫁入った娘ではあるけれども娘がやって来る頃には必ず自分がここにやってきといて小さい子供は自分が守りをして他所の子供までだから一緒に守りをしてやる、そういう信心生活が必要なんです。神様が分かると言う事の為には俤子さんがここに参りましてから、先生昨日神様に対して相済まんことが出来ましたとこういう。
どうしたのと聞いた所が。昨日の夜あの御祈念の時、主人が先に御祈念をしとる、そして後で私が御祈念さして頂いてひょっと顔を上げさせて頂いたらお社の所にローソクが倒れて燃えよる。びっくりして消させて頂いた所が、お社に焼け跡が付いたとこういうのである。私はそれを聞かせて頂いてね、本当に有難かったです。まだ若い嫁さん達夫婦がね恐らく子供達は寝とるとも居ろう、横で悪さをしとるとも居ろう。
そして夫婦が一生懸命お灯明も明々と上げて御祈念をしているその姿を思うたら、あぁ有難いと思うたです。そりゃ焼けたくらいの事じゃなか有難いと思いました。私昨日嬉しかったと云うのはその事でした。さあ家にはお神様お祭りはしとるばってん、いつどん掃除したやらわからんごとしとったり、お花は枯れてござったり、拝むちゅうたっちゃわが用事のある時だけ拝んだり、ではなくて。
毎晩の信心のそういう雰囲気の中に子供達が育つなら、もう絶対出来損なう子供達はなかばいと云うてから、昨日は俤子さんと話した事でした。まだ若い夫婦がですね、昼の働きを終らせて頂いて、夜の一時をお灯明も明々と灯させて頂いて、一生懸命御祈念をしよる姿を思うてご覧なさい。こげな心温まる有難い話はありません。皆さんどうでしょうか。そげな事も出来ないことでは、おかげになりはしませんよ。
昔の話ですけど今そこに、千代田さん参っとられますが、あちらのお父さんから聞いた話ですけどね、家の家内が熱心なつには了見に及ばん。御飯炊く時じゃろうが、風呂沸かすときじゃろうが大祓の本ば読みよる。とにかく二日間で覚えてしもうたと全部もうそれもね。あげんでんよかとこまで覚えとる全部。裏の祖先讃詞やらいろいろあるでしょう、まで覚えてしまっとる。ちょっと家の家内のごと、熱心な女はおらんという話を聞いたことがあるです。
もう一ヵ月も参りよって、天津祝詞の一巻も覚えられんなんて、そういう一心では一心が立つ筈がないですね、拝まして頂く限り、そうでしょうが、只もぢゃもぢゃ自分のいいたい事だけ言いよることじゃつまらん。例えばそれは本気で覚える気になれば覚えるですよ。私どもは兵隊に行ってからです、あの沢山の覚えものをですね、もう何時間で覚えろと言われれたら覚えましたからね、私どんのごと頭の悪かったっちゃ。一心と言う事はそれが一心なんです。
そういう一心を立てて神様に向わなければね、神様を信じて疑わない心の状態とか又神様を表わして行くことは出来ません。そのくらい一心がなからなければ、拝みやおるばってんがねそれこそ一心ではない。ボヤーッとした拝み方。居眠り半分で拝みよる。天津祝詞は覚えたばってん、大祓を一人で上げられないという人がまだ沢山ありはせんじゃろうかと思う。合楽で一ぺんそういう試験ばしてみようと思うがどうでしょうか。
ほうあんた何十年信心しよる、そしてまだ大祓も上げきらんというのがありわせんだろうかと私は思う。一心が無いからです。神様には一心を向けなけりゃ駄目。拝みだしたらそれこそ槍先でつかれても、振り向くことは出来んぞという一心、人の話し声どんが聞こえるごたるこつじゃ神に一心は届かんと仰る。そういう稽古を繰返し繰返しさせて頂いてはじめて、神様を信じることの出来れるおかげを受けられる。
そして神様が信じれるようになったら、信じれるようになった程、拝まなければ居られんのであり願わなければ居られんという信心。溺れる者は藁をも掴む。こういう心理状態で拝みよるのとは違うでしょうが。おかげ頂くか頂かんかわからんけども拝むのとはだた目が違うでしようが。昨日私は或る方のお願いさせて頂きよりましたら、よう風呂場の中とか泉水のとこに獅子頭がこう水を吐くとがあるでしょう。ライオンの頭から水がどんどん出るとがあるでしょうが。
私そのことをお願いさせて頂きよりましたらぴしゃっと水が止まってしまったお知らせを頂いた。あらぁ水は恵みと仰るが、お恵みが切れるのじゃろうかと私は思うた。又お願いさせて頂きよったらね、ははあ獅子頭という事はね、これは天地の親神様の働きの一部。所謂、云うなら天地の親神様を母親というなら父親の働き。獅子は子供を千尋の谷に蹴落として、それをはい上がって来る子供だけを育てるという程しの厳しさ。獅子頭の水が口からピタッと止まったのは、どういう訳かというとですね。
その人はもう凄まじい迄のおかげを頂くことが出来ると言う事です。今、本当にそのことを難儀と思っておる難儀は難儀じゃない事がわかった。その人はこれは神様の御都合いや神愛の表れだとわかった。獅子の口から水がどんどん出ておると言う事はね、厳しい迄の一般から言うたら、信心しござるとにどうしてこげな修行が積むじゃろかと言う様な状態なのである。だからそこから抜け出ろうじやなくて、その神様の心がわかった。そしたらもうぴしゃっと止まってしまった。
今まで伏し転びしよった腹がぴしゃっと止まった。してみると、その水が止まったということは、大変な広大なおかげであると同時にその水そのものがお恵みであることが分かるでしょうが。私はその事を頂いて改めて、成程難はみかげと仰るが本当に難は即おかげだなぁと感じました。難そのものが可愛ゆうてたまらん。おかげを頂きたいばっかりに、より力を与えたいばっかりに獅子が千尋の谷に子を谷間に蹴り落とすような神愛の表れであると言う事。
だからそれに縋って、神様がこの様にしてまで私を鍛えて下さる。修行させて下さると云うことになったらもうそれは御礼を申し上げるより他にない。それから先が母親のそれこそ撫でたり擦ったりのおかげと言う事になって来るでしょう。そういうお知らせを頂いた。神は声もなし形も見えんのですから、疑えば限りがありませんけれども、それを本当に信じさせて頂くことのためにお互いが修行をする。わからせて頂くことのために御理解も頂く、そして一念をです一心を立て、一念を貫かしてもらう。
修行させて頂いて神様がわかればわかる程、縋らなければ居られん願わなければ居られんという信心、に縋って行くことのためにお互いの日々の信心生活が、もう一変ここに改められなければいけんのじゃないかと思う。若い夫婦が一日の働きを終らせて頂いて、御神前に親子四人の者が額づいて御祈念をしておる。そういう信心生活から神様をいよいよ信じて疑わんですむ、有難い勿体ない、神様として頂くことの出来れるおかげが頂けると思うのですね。
どうぞ。